ずくなしの鐘

序章

 

歴史は水の如く留まることはない。

 

 

 一滴の雫から始まる源も大河を渡り海へと向かう。

 

 

  海を知ることなく地に消えていく雫があることに気づかず海に向かう大河のみを知る。

 

 

 

歴史という大河の流れは、時の権力者の手によって歪められ

 

真偽を後世で示すことなど叶わない。

 

だが、歴史と云う大河を創りつづけた一滴の雫たちが、

 

生きたからこそ今も歴史はつながっているのだ。

 

 

 

明治 39 年 5 月 10 日、

 

烏帽子から見下ろす麓の上田鉄道駅前は旭日旗と日の丸の旗を手に熱狂の渦に 呑込まれていた。

 

 

 

上田小県の蚕業が生み出した良質な生糸は横浜港から

海外へ輸出されるようになり山深き内陸部でありながら

上田には明治を迎え早々に鉄道が敷かれていた。

 

 

鉄道から下立った三名が手を挙げると群衆の熱は

 

狂った歴史のなかを生きた悲惨さを消し去る感覚さえ覚える。

 

 

 

 

三名が手を振り群衆の熱狂の渦の中へ吸い込まれていく。

 

 

突然白髪の老人がよろめきながら三名の前に躍り出た。

 

警官はすぐさま老人を取り押えた。

 

 

 

一瞬の出来事に沸いた群衆が引き潮のように急激に引き静寂が包んだ。

 

 

 

三名のひとりが前に出て

 

 「戦傷者だ。富国強兵の為、この身を捧げた御仁だ」

 

と警官に抑え込まれた老人を讃え老人を立たせた。

 

 

群衆の熱は最高潮になった。

 

 

 

日本は、西南の役以降、

 

富国強兵政策を推し進め征韓論を以てして、日清戦争を戦い、

 

日露戦争で勝利 したことで欧米列強と肩を並べることとなった。

 

 

上田に現れた三名は伊藤祐亨元帥、東郷平八郎大将、上村彦之丞中将、

 

日清戦争、日露戦争で活躍し「三将軍」と謳われた旧薩摩藩出身の軍人たちである。

 

 

 

老人は手を握られた手を掴み返し睨むように見上げ呟くように訊いた。

 

 

 「清次郎・・・。これが清次郎の夢見た国か」

 

 

  「清次郎・・・」

 

ぽそりと聞き返すように聞いたことのある名前を思い出そうとしたとき、

 

老人は声を大にして発した。

 

 

 「赤松小三郎の訓えは戦に勝つためのものだったか?

 

                              富国強兵とやらのためか訊いている」

 

 

 

老人とも思えぬ怒気、

 

殺気を発しった。

 

 

さすがに警官たちが老人を抑えつけた。

 

 

「赤松・・・赤松先生じゃ!!」

 

 

問詰められた一名が声にだし三人が顔を見合わせた。

 

 

「ご老人、お主は赤松先生の門弟であったか」

 

 

手で警官たちに下がるよう指示を出した。

 

 

 「俺は門弟でもない。あいつを守れなかったずくなしだ」

 

 

 

「ずくなし・・」 

 

 

「ずくなしとは、上田弁です。将軍閣下」

 


老人を抑えていた一等巡査が真面目に答えた。

 

 


「そうか、上田は赤松先生のご出身の町であったな。」

 

まるで今日まで忘れていたかのような口ぶりに老人が激高した。

 

 

「お前らに殺された清次郎の訓えは役に立ったかと訊いているんだ」

 

老人の辛辣な言葉に三将軍の顔が怒気に満ちた。

 

 

「ご老人、私たち薩摩の手の者が斬ったという噂が明治に変わる直前にあったことは覚えております。

 

けんど、私たち薩摩隼人は信州人赤松小三郎先生を尊敬し、

 

不慮の死を悼んだことはあっても、この手 で殺めなどはしておらん」

 

 

 

三名の言葉に偽りはないと感じた老人は脱力した。

 

 

脱力した老人を眼前に、三将軍は群衆に向け叫んだ。

 

 

 

「上田小県の民衆に聞いてもらいたい。

 

日本国が清国、露西亜(ロシア)に勝てたのは、西洋軍学を学 ばれた赤松小三郎先生の訓えがあってのこと。

 

私たち三名は赤松先生の冥福を祈る為、上田に参った。 

 

信州人赤松先生は、日本人の誇りと想っておる」

 

 

 

赤松小三郎の名を駅に集った群衆で聞き覚えのあるものは殆どいなかった。

 

三将軍は叫んだ言葉の通り、翌日赤松家に出向き、

 

凡そ 20 両(現代の価格で約400 万円)を見舞金 として遺族に手渡し冥福を祈った。

 

 

赤松小三郎が逝去して 39 年目の出来事である。

 

明治 39 5 12 日、三将軍の来訪の報せと共に「赤松小三郎」の名が信濃毎日新聞に掲載された。

 

老人は新聞を手にしていた。

 

「清次郎、待たせたな。お前の雫は大海に届いた。俺も・・・これで逝ける」

 

 

新聞を枕に手にした短刀をゆっくりと抜き、紅く染まる烏帽子岳を見つめ刃を首筋にあてた。

 

七十年の人生を朱色の詩で遺した。

 

「雪耐梅花麗」意味は梅の花は雪に耐えればこそ麗しい。

 

 

幕末日本、上田藩士の洋学者赤松小三郎が夢見た国を目指し生き抜いた侍たちの物語である。

 

 

 

 

 

 

                 この物語を、最愛の坂口幸太に捧げる。 

 

 

 

 

 

 

1 鳥居の雪

手に吐きかける息は白く弦を引き絞るように張りつめた。白い息に交じり響き渡る音色は赤く染まる ほどに音を立てていた。

赤き音色を立てていた男は坐し算盤を弾き、白き息を吐いた男は大の字で空を見上げていた。 対照的な二人であるが、水盃を交わすほどのお互いにとって唯一無二の友であった。

「なあ。清次郎、お主は算盤で治世を渡るのか」

お宮の境内で大空を眺めたまま算盤を弾く男に尋ねた。

「平助は、活文禅師の話をきいていなかったのですか」

算盤を弾く音は乱れぬままこたえた。

「活文・・。あれは、どうみても破戒僧だ」

身体を起こしてこたえた。

「平助は毎度お叱りを受けるのでそう思うのですよ」

活文禅師はもともとは上田領内の寺にて住職を勤めていたが住職を辞して長崎へ遊学に出ていた。

上田に帰郷した活文禅師は寺子屋を開き、士分に寄らず城下の者にも限らず長崎で学んだことを教え ている一風かわった和尚である。

北国街道を東に海野町の関所を出て寺町を抜けるた常田村の北国街道沿いにある毘沙門堂と呼ばれ る場所。

禅師と平助の祖父は旧知の仲のためか、平助はよく禅師に叱られている。ふたりがいまいる場所は、 平助の祖父が道場として借りている毘沙門堂に近い踏入村にある科野大宮だ。

寺子屋も稽古もないときは二人は御神木であるけや木に背を預けながら過ごしている。

「禅問答は苦手なんだよ。俺は爺が教えてくれるこっちが好い」 手元に置いてあった樫の木で出来た木刀をふってみせた。 「活文禅師は禅問答ではなく、長崎平戸で学ばれたことを教えてくださっているんです」 「それそれ。坊主なのに住職を辞して長崎で遊学、ご禁制に近い学問ばかり。活文禅師の異国の話は

面白い。しかし海もない上田藩で一体どうするんじゃ」

算盤の手が止まった。 「私の父は、藩校で句説のお役目をしております。身分の低い家柄でも学門に秀でる者は江戸での勤

めが許されると聞きました」

「算盤は出世のための損得勘定か」 「損得勘定と云われれば、その通りと答えますが、勘定が出来ないと学べぬ学門もあるんですよ」 「だってよ。おめえら」

平助は声をあらげた。 声の奥から男たちがあらわれた。そのひとりが身につけている衣類から他の者との身分の差は明らかであった。 「芦田のご次男には、身分の低さにもかかわらずご高説を賜り頭が下がりますが・・・青瓢箪の分際

で、算盤だけで出世しようなんて反吐がでるんだよ」

「松尾様。あいつも一緒ですよ」

木刀を手にした平助を指した。 「ずくなしが一緒にいることも織り込みだ。だが、ずくなしの子分はいない。」 「確かに。ずくなしの腕っ節が強くてもさすがに4名相手では手も足も出ない」 「その通り。清次郎君。君の得意な算盤で弾かなくてもわかる道理よ」 「確かに。清次郎の算盤で弾く必要はねえ。おめえらだけじゃ俺ひとりにも勝てねえからな」 平助がにやりと頬笑み前にでた。 「ずくなし。いい気になるな。お前の祖父が矢沢仙石家の師範だからと云っておまえが強いわけじゃ

ねえ。証にお前の父も兄も剣を置いて商人になってるじゃねえか。お前は頭も悪いから食いっぱぐれの 小僧ども集めてお山の大将気どりなんだろが、今日はその子分さえいないではないか」

上田藩士である芦田清次郎と異なり、平助の家は上田藩領に隣接する矢沢郷に領地を与えられた旗本 家の家来である。平助の父は士分の勤めであった武術師範を辞して綿花の栽培を生業にし嫡子である兄 も手伝っていた。

「父上と兄上を馬鹿にするな。二人は、剣では出来ないことをしているんだ」 「士分の命のやり取り剣ではできないこと。お銭を数える損得勘定ってか。」 取り巻きも笑った。

平助の顔は怒りに満ち手にした木刀を握りしめる腕の筋が太くなっていく。

清次郎は、平助の父と兄への崇敬の念を知っている。父が己の私利私欲の損得勘定のために剣を置い たのではないことも知ったうえで武名を引き継ぐため剣術を選んだことも。それに腕前が並大抵ではな いことも。1対1であれば負けない。だが目に前の4人を相手に無事ですむことはない。

2対4であるはずだが、清次郎は木刀さえ帯びていない。

「清次郎、とめるなよ」

「付き合うよ」

ひとりを倒そうと踏み込んだ平助を後ろから3名が囲んでいた。 このときの平助の技量では成す術もなかった。 二人は何度殴られ地を舐めても立ち上がりつづけた。 清次郎は命と等しく大切にする算盤を身を以て庇い、平助は木刀を折られても、立ち向かうことを止

めなかった。

諦めればそこで終わり。 二人が唯一無二の存在であったのは、己を以て生きる意志の共鳴

4

囲んだ者も根負けした。 「もういい。懲りたら身の丈にあった態度を改めろ。」 云い放ちその場を去った。

「清次郎、算盤は無事かな」

「ええ、平助も無事ですね」

算盤以外は二人ともボロボロであった。 「損得勘定が卑怯な者か。嫌味一つ云うのに多勢で囲むことのほうが卑怯で恥じる行いです」 「清次郎、喧嘩してるときに言えよ」

「かたじけない。算盤を抱え込むのが精一杯でした。」 二人の目は相、笑った。

「俺はもっと強くなってやる。清次郎は算盤で上田で一番になれ」 「文武両道が良いのですが、私たちはふたりで一人前のようですね」

再び笑った。

このとき二人は12歳。 汚れを知らぬ岩清水からこぼれた雫が、混濁とした大河「老中松平伊賀守暗殺を巡る陰謀」に吞み込

まれていくことは予見さえできなかった。

1 章の解説 上田藩について 現在の長野県上田地域(現在の上田市全域ではない)

上田藩は、関ヶ原の戦の折、父と子が別れ戦い、勝利した徳川に味方した子に与えられた後、治める 家は、二度にわたり移ろい、松平家の治世となった。

初代藩主である真田家に対する領民の崇敬の念は 200 年の時が流れても根強く徳川譜代の松平家は 領民の根底にある信仰を抑えそれをもとに上田を治めることに力を注ぎ真田家所縁の寺社仏閣も寄進 をうけるなど歴代藩主によって保護されていた。

石高5万石の上田に入封した藤井松平家は大坂城代や老中を勤めた徳川譜代の名門であり幕府中枢 での勤めに重きをおいていた。

上田10万石は上田小県全域を含めた石高でも過大であるが、江戸幕府は上田小県には旗本の宛がい 地などを配置するなどして藩の力を殺いできた経緯がある。松平氏が寺社仏閣の保護、城下町の産業開 発には力を注いでも、徳川を二度にわたり退けた尼が淵に坐した上田城の修築を行うことがなかったの は徳川への忠節とする見方もあるが、5万石ほどの懐には城の修築は財政の悪化は明白だったのだ。

上田領内は、北国街道、上州街道とひとや荷の往来も多い交通の要所でありこれらを管理するは石高 を銭で換算できる和算の技量は租税を得る要であった。

松平家は上田領統治にあたって家臣の和算奨励に重きを置いていた。

武家にあって算学は、損得勘定の道具として低い扱いを受けたが、和算と呼ばれる算学で上田藩出身 者が江戸番付(相撲と同じ)で大関を輩出するなど高い実力を誇っていた。藩制に和算を多く取り入れたのは藩主の意向であり、武名を以て世を渡ることのない治世においては 損得勘定が幕政では大きな力となった。

また、西洋の技術を用いる有能な人材を発掘するため、老中まで出世した上田藩主松平伊賀守は和算 での成績優秀者には身分の上下にかかわらず江戸遊学を認めていた。