序幕 150年の眠り 京在日記


 

刃が支配した騒乱の戦国時代は德川幕府によって天下泰平の江戸時代は到来した。

 

 

 

200年にわたる泰平の世は支配する者とされる者の厳しい身分制度によって保たれた危うい均衡。

 

 

 

火山噴火、地震、河川の氾濫と自然が振るう業によって

 

泰平の世の支配の中生きる人々の生活は困窮した。

 

 

 

 

刃と騒乱の終焉を迎えた大坂で、支配者への抵抗の種火がともった。

 

 

 

 

異国船が捕鯨を目的に日本国近海に現れ難破し異国人が漂着することも増えた。

 

長崎平戸に限られた異国人とのつながりは新たな時代の到来の汽笛となり、

 

武士から民衆へと飛び火し種火は時代を焼き尽くす騒乱の業火へと燃え上がりはじめていた。

 

 

 

太平の世と謳われながらも国を支配したのは刃を手にする武士たちからかわることなかった。

 

日本国に生きるひとびとが自由という権利を手にするまで、永い歴史の暗闘は繰り返され続けた。

 

 

 

 

否。明治維新から150年が過ぎた現代も歴史に残らぬ闇の中、

 

生きることの自由、未来を守るため烈士たちの暗闘は続いている。

 

 

 

慶応393日西洋学者でもある上田藩士赤松小三郎は

 

東洞院通を薩摩藩邸へ向かい歩いていた。

 

 

 

赤松小三郎の正面に立った中村半次郎は、

 

赤松と一切の言葉を交わすことなく、ただ刃を振り下ろした。

 

振り落された一刀は薩摩が武力討幕に腹を括った覚悟を世に示す一閃となり、

 

徳川幕府支配の終焉の証であった大政奉還を経ても国内を二分する内戦へと発展していった。

 

 

 

赤松に半次郎が振り下ろした刃を知る者は、

 

密命を降した薩摩指導者と半次郎と行動を共にした僅かな者だけである。

 

 

 

「幕府の密偵である赤松を斬った」

 

 

 

討幕派による天誅であることを示す斬桿状が三条通りに掲げられた。

 

 

 

 一刀は時を動かし、その年に徳川幕府の時代は終わりを告げ国を割る大戦の後に明治は到来した。

 

 

 

 武士の時代の終焉はそれから9年を要し、

 

武士たちも時代の中に消えようとしていた。

 

 

 

明治9年 1876年 鹿児島県桜島の噴煙の中にある朝陽を眺める二名がいる。

 

 

 

 

長身のひとりは洋装の軍装に身を包んでいるが、

 

軍装の痛みは激しく、今まさに戦場にあることは一目瞭然である。

 

 

深紅で染まった襟元の上から浅黒く焼けた顔には

 

似合わず清涼な爽やかな表情を浮かべている。

 

 

 

半歩後ろに小柄な体躯に淡い紫の羽織を纏った者がいる。

 

 

 

長髪を後ろでひとつに束ねており透き通る白い肌、

 

羽織の中に隠れている線も細い。

 

 

 

無言のまま陽が登る、二人の間に風が吹き抜けた。

 

巻き起こる風をきっかけに長髪の者が声を発した。

 

 

 

「半次郎様。父上のこと、聴かせては頂けませんか?」

 

 

 

風の中に琴の弦が弾けるような凛とした声が響き、

 

長身の男は振り返りえることなく応えた。

 

 

 

「貴殿の父は、私が刃を交わした真の武士のひとり。

 

 

                       利権や名誉に甘えることのない男。

 

 滅び逝く武士たちが失ってしまった武士の誇りを最期まで貫いた。

 

 

 貴殿の父と闘っておらねば覚悟が何かもわからないまま、

  

                 世に流され人を殺めるだけの腑抜けとなっていた。

 

 最期に交わした刃の約定と共に悪名を背負って明治を生きた。

 

                                    約定も終わる。

 

 

                           武士の世が終わり、真に民に平等が訪れる世が幕を明ける」

 

 

 

「半次郎様が悪名を背負う理由はありません。父も望んでいるとは思えません」

 

 

 

「私は師をこの手で殺めた。新しき世を築く為とはいえ師を殺めた大罪は赦されることはない。

 

故に武士の時代と共に悪名を背負い闇に消えていくと決めて生きてきたのだ。

 

武士の世を変えると誓った赤松先生の理想である民の世を創る礎となるため、

 

武士として死ぬのだ。

 

斯様な方法しか思いつかなかった愚弟であったことを赤松先生には地獄でお詫びする」

 

 

 

 

 

「半次郎様の想いを可兒様にお伝えになっていないではありませんか」

 

 

 

「幸殿。いま貴殿に伝えた。」

 

 

 

「いけません。ご自分の口でお伝えください。

 

 可兒様も、久米部様も、半次郎様の想いを知りません。」

 

 

 

 

 

「構わぬ。何を云おうとも、殺めたことへの言い訳にしか響かぬ。

 

 幸殿の父、小宮山利之助殿が黙して語らなかったように私も何も語ることはない。

 

                                                 ただ・・・」

 

 

 

「ただ・・・」

 

 

 

「小宮山殿や真の武士が生きた時代があったことを忘れてほしくはない。これを預かってもらえるか」

 

 

 

一冊に纏められた紙の束を手渡した。

 

手渡された束の一番上には筆で「京在日記利秋」と記されていた。

 

 

 

「京在日記利秋・・・」

 

 

 

「私が武士として京で生きた頃の日記。

 

  はじめて貴殿の父を見た禁門の変から赤松先生を殺めた

 

  慶応三年九月三日のことも詳しく記した。あとは私の想いを寄せたおなごのこともな」

 

 

 

 

 

「慶応三年九月三日・・・父の命日・・

 

 

 

 

 

「日記には幸殿が知りたいであろう小宮山利之助殿の事も記してある。

 

 当時は二刀使いと記していたが」

 

 

 

半次郎は桜島の噴煙の先にある記憶をたどっていた。

 

 

 

「何故、利秋と描いたか、人斬りの風評が恐ろしかったのではない。

 

斯様な理由で名を捨てればなまくらと呼ばれながらも闘い続けた貴殿の父に侮蔑される」

 

 

 

「では?」

 

 

 

「名を変えよ。と指導者から命じられたのは確かだ」

 

 

 

明治政府の要職に就く際に人斬り半次郎の名が新政府にとっては向かい風になることを危惧した薩摩派は中村半次郎に名を変えることを命じ、命に従い「桐野利秋」と改めていた。

 

 

 

「師を斬った半次郎であることは名を変えても変わらぬ。故、姓は『き、り、の(斬りの)』」

 

 

 

「利秋と名乗られたのは?」

 

 

 

日焼けした黒い顔の中に白い歯が見えた。斬り死にを決めている男の顔ではなかった。

 

 

 

「ある男から一文字、命を奪った季節から一文字

 

 

 

幸の眼からな涙が流れ出していた。

 

 

 

「そうじゃ。お主の父、利之助殿から一文字を頂いた。」

 

 

 

「何故?」

 

 

 

「私はあの男に恐怖した。だがその恐怖は畏怖。敬意だ。

 

野心も私心もなく武士として、刃を手にしながらも人として愛すべきものの為に生きた男に憧れた。

 

憧れた男を前に誓った新しき世の国造りをこの名で確かめてほしかった。

 

 

ひと斬りの半次郎が、利之助殿と明治を生きた証。それが桐野利秋の名だ」

 

 

 

「半次郎様」

 

幸は崩れ落ちた。

 

父小宮山利之助と死闘を繰り広げた中村半次郎が最も父を尊敬してくれていたこと。

 

桐野利秋は崩れ落ちた幸の背中に手をあてた。

 

 

 

「赤松小三郎先生を殺め、貴殿から父を奪った私が許されることはない。

だがこの日記を預かってくれ。赤松先生が目指した時代、小宮山殿と私が生きた証なのだ」

 

 

 

幸は桐野が手配した小舟に乗せられ鹿児島を離れた。

 

小船は沖に停泊していた外国船に辿り着き幸は外国船の中で半次郎が記した「京在日記利秋」を捲った。

 

豪快な文字とは異なり半次郎の細やかな優しさに涙が溢れた。

 

 

 

「二刀使い」、「なまくら」、「饅頭同心」三つの名で呼ばれた父

 

小宮山利之助を追い駆けた半次郎の純粋な想いが綴られていた。

 

 

 

半次郎が記した想いの中、

 

父利之助や闘う路を選んだ烈士たちの時代に遡っていくのであった。