零 二手 養老の雫

 

2-2 二刀使い

 

 

 

山本が操る平法には父が託したふたつの奥伝があった。

 

 

 

 ひとつは一死必殺の禁忌奥伝。

 

 

 ひとつは摂理を説く鞘の理。

 

 

 

一死必殺の禁忌は兄に伝授され、鞘の理は零に継承された。

 

 

 

 

兄妹二人が揃って二階堂平法は成り立つ。

 

鞘の理の継承は零にしか継承されていない。

 

 

 

禁忌奥伝を破る唯一の手段が鞘の理だと父から聞かされており、

 

鞘の理を継承することが零の使命であった。

 

 

使命を新たな命へ繋ぐためには、鞘の理を共感できる者ではならない。

 

 

 

 

寄せた利之助はただの優男ではなく鞘の理の真理を心の中に既にもっていた。

 

 

 

利之助が臆病者ではなく鞘の理に従い兄の剣戟から防戦にまわっているのであれば、

 

利之助こそが流派を担うに相応しい男。

 

 

 

 

妻になるために利之助が心に秘めた想いを封じた朱色の鞘の持ち主の話を聴いておきたかった。

 

利之助には伝えていなかったが零は兄には利之助の妻になりたいことを打ち明けていた。

 

 

 

鍛錬を除き兄は常に優しい。

 

 

 

「利之助はダメだ。必ずお前が悲しむ」冷たい眼であった。

 

 

 

「兄上、利之助様が兄上から一手をとりましたら私の想い聞き届けて頂けますか」

 

 

 

「利之助が私から一手・・・それが叶えば。赦そう。

 

 お前が選んだ相手が相応しいか見定めよう」

 

 

 

 

 

一手をとると言った時の零の声に兄山本の眼の奥に深い哀しみをみてとったが

 

眼の奥の哀しみが何を意味するかこの時まだ零は知らなかった。

 

 

 

兄山本も利之助の剣腕を認めていることは間違いない。

 

 

 

利之助が三手目を踏み込むためには利之助の心の中にある鞘の理を技へと昇華させ

 

修得させる必要がある。

 

 

零はこの日、利之助の心の中の間合いに踏み込んだのだ。

 

薄らと行燈の灯る中利之助は重い口を開き始めた。

 

 

 

 

 

浦賀警護から戻り、赤坂湊戻ることもなく鍛錬は直に始まった。

 

赤坂の坂下の家には小原より報せが行ったと山本から聞かされた。

 

 

 

二度目の浦賀警護に際して大垣領内の見廻りを任された後、

 

休養を与えられた利之助は赤坂湊の家に顔を出した。

 

 

 

1年以上顔を見ることのなかった母は喜び、精悍な顔付きになった利之助を喜んで迎えた。

 

 

 

浦賀警護での出来事、ここ1年の鍛錬の事を利之助も母に告げた。

 

 

 

利之助の母は腰に帯びている朱色の鞘を見つめ刀鍛冶の鞍沢さんを訪ねてあげなさいと眼を臥せた。

 

利之助は赤坂に戻った際には鞍沢に会うつもりであった。湊の近くに鍛冶屋はあった。

 

出立前に出ていた熱気も心地よく響く刀を鍛える音もなく静まり返っていた。

 

 

 

「おい!鞍!昼寝でもしておるのか」

 

 

 

友である鞍沢に会える喜びと、

 

鞍沢が託してくれたなまくら刀のおかげで己の心根の弱さをしることができた礼を伝えねばならなかった。

 

 

 

「おい!どこにおる鞍!お前に預かったなまくらを返しに来たぞ」

 

 

 

屋敷は静まりかえっていた。

 

不在かと思った利之助の耳に奥座敷から僅かだが咳込む音が聞こえた。

 

 

 

「なんじゃ。夏風邪か。こじらせてはいかんぞ」

 

 

 

奥座敷へ入り、障子を開けた。

 

利之助の前には黒ずんだ液体に染まる鞍沢が横たわっていた。

 

 

 

「おい!鞍!如何した!鞍!!」

 

 

 

身体を揺すった。

 

 

 

「虫の報せとはこのことか。」

 

 

 

僅かだが鞍沢は声を発した。

 

 

 

「鞍、如何にしたのだ?」

 

 

 

「医者に養生を勧められ休んでおるだけじゃ」

 

 

 

「されど、この血は・・・」

 

 

 

労咳だ。

 

 

 

「短くも長くも人には灯された蝋燭のように命の火が定められておるだけのこと」

 

 

 

労咳でさきがながくないことを鞍沢は伝えた。

 

 

 

「利之助。お前は腰の刀を抜いたな。」

 

 

 

「お前の云う通りだった。

 

俺は喧嘩が少し強いだけの若造で、人を斬ることの重みを何もわかっていなかった。

 

お前の打ったこの刀が俺を救ってくれた」

 

 

 

朱色の鞘を握りながら顛末を語った。

 

 

 

「なまくら刀である限り人を斬ることなく身を守ることは叶う。

 

 礼を云うぞ鞍」

 

 

 

「利之助。一度鞘から抜かれた刃は二度と鞘には戻らぬ。

 

噂に聞けば、山本指南役の下で剣術の鍛錬に励んでおるそうだな」

 

 

 

 

 

「人を殺めるためではない。」

 

 

 

「利之助!!」

 

 

 

鞍沢が一喝した。

 

 

 

「いいかよく聞け。

 

お前が習得しようとしている剣技は道場剣法ではない。

 

実戦。太平の時代にありながらも人を殺めるため昇華され続けてきた業。」

 

 

 

鞍沢の勢いに押され唾を呑み込んだ。

 

 

 

「なまくらを餞別に渡したのはお前に刃を抜いてほしくなかったからだ」

 

 

 

「鞍・・・何故だ」

 

 

 

「お前はいずれ闘に身を投じる。

 

 一振りを返せ。三日の後、もう一度訪ねてこい。」

 

 

 

咳込む鞍沢に朱色の鞘ごと取り上げられ追い出される形で家に戻った。

 

大垣城下に戻る日の朝、三日の約束の日。

 

見舞にと二人でよく食べた饅頭をもって利之助は鞍沢を訪ねた。

 

鞍沢は刀鍛冶の礼装で出迎え、利之助の目の前に朱色の鞘を突き出した。

 

 

 

「抜いてみろ!」

 

 

 

受け取った朱色の鞘から刀身を抜いていく。薄暗い部屋の中で妖しい光を放っている。

 

三日前にはなかった刃が波紋に沿って光を放っていた。

 

 

 

「これは・・・」

 

 

 

「持って行け。」

 

 

 

「俺はひとを斬るつもりはないと言ったであろう」

 

 

 

「戯言をほざくな」

 

 

 

「武士は人を守る為に刀を帯びる。なれど、刀人の真理は殺めること

 

 

 

 

 

「真理・・」

 

 

 

「刃に銘を刻んだ。俺の最初で最後の一振り、不惜身命」

 

 

 

「不惜身命?」

 

 

 

「御仏の声」

 

 

 

 

 

「どのような意味があるのだ」

 

 

 

「死を恐れず命を惜しまず働く・・・人は云うだろうが俺の願いは違う」

 

 

 

「鞍の願いとは」

 

 

 

「不惜身命に刻んだ想い。

 

 命を無駄に奪うな。投げ出すな。

 

  死に逝く俺の分も命を懸けて必死に生きてほしい。

 

 

主の為に死ぬことが奉公より人を守る為生きるため剣をとり闘う者に持っていてほしい。

 

不惜身命を刻んだ刃。

 

   利之助、   友であるお前に託す。」

 

 

 

 

 

鞍沢の頬に一筋の雫が奔っていた。

 

 

 

「鞍!俺は覚悟などできておらん!」

 

 

 

「いや。上士たちに囲まれ殴られた俺を助けてくれた。

 

 浦賀でも見ず知らずの地の民の為、命を張って守ろうとした。

 

 鞘を投げ捨て刃になる覚悟をもった男の証

 

 

 

 

 

「なれど・・・」

 

 

 

「利之助。人斬りになれと言っているのではない。

 

 お前ならきっと俺の一振りを使いこなしてくれると信じている。

 

 鍛冶屋は切れ味の良い刀を打つのが生業でない。

 

     己の魂を一振りに打ちこむのだ。

 

          俺の魂だけでも    共に歩かせてくれ」

 

 

 

 

 

微笑の中、鞍沢は口から多量の血を吐きだした。

 

 

 

「命火が灯る間にお前に託せてよかった」

 

 

 

「しゃべるな。医者を呼ぶ」

 

 

 

「頼む。   

  

    このまま。

 

            このまま・・・」

 

 

 

鞍沢は利之助に抱えられたまま静かに眼を落した。僅か17歳であった。

 

鞍沢が継いだ赤坂鍛冶は利之助が手にした刀が最期の作となった。

 

 

 

坂下の家の母に鞍沢の葬儀のことを頼み約束の刻限までに

 

利之助は大垣城下へ戻り山本と共に養老の滝の鍛錬場へ向かった。

 

 

 

この日を境に利之助は鍛錬で防戦に回るようになったのだ。

 

 

 

 

 

鞍沢の話をし終えた利之助は憔悴していた。

 

善次郎という同門の高弟であるが友とも呼べる者がいる。

 

利之助は1年前の友の死と朱色の鞘の重みを受け入れることができずにいた。

 

零は利之助を優しく抱きしめゆっくりと唇を重ねた。

 

 

 

「利之助様、ひとには命の灯が定められております。

 

短くとも鞍沢様が生きた証を利之助様に託したのです。

 

利之助様と共に今も歩むためと私は感じます」

 

 

 

「零・・・様」

 

 

 

 

 

「利之助様」

 

 

 

 

 

二人は強く抱きしめあい身体を重ね、利之助の胸に顔を沈めながら零は語り始めた。

 

 

 

「私は父上から剣術の理を学んで参りました。しばしお付き合いください。」

 

揖斐川は大垣を襲い続けてきました。

 

水は穏やかなときは富と命を育み、荒れ狂うときには富と命を奪います。

 

荒れ狂う揖斐川は制することはできません。揖斐川の流れが緩やかになる水の流れを読むこと。

 

兄の一刀目は流れを読む静流。

 

二刀目は飲み干す激流。

 

三刀目は相手が流されているのか逆らっているのか見定め撃ちこまれます。

 

 

滝での修行は水の激しさと静けさを身につけるため。

 

滝壺へ落ちる水は激しく感じます。

 

なれど、滝壺の水は心地よく水面(みなも)には波紋が静かに泳いでいます。

 

 

 

 

 

更に零は続けた。

 

 

 

「平法の伝承では兄の流の激しさに抗うのではなく、

 

 流れ出る一滴の雫を感じてください。

 

 雫を感じれば兄の手を破る理を悟ります

 

 

 

 

 

零の言葉はなにやら禅問答じみていた。

 

零の言葉は翌朝のことを見据えていたかのようであった。

 

眼を覚ますと胸元にいた零は既に朝餉の支度をしていた。

 

昨夜のことは何もなかったかのようであった。

 

 

 

「夢・・であったか」

 

 

 

利之助は呟き、外の井戸で水を浴びた。

 

 

 

「利之助!」

 

 

 

 朝靄の中に声が響いた。

 

 

 

「善次郎。どうした早いな」

 

 

 

善次郎は大垣城下で小原直臣として内同心の任にあたっているため

 

早朝から鍛錬場に来るのは珍しかった。

 

 

善次郎がは早朝から訪ね来た理由はすぐにわかった。

 

善次郎の後方から山本がいた。

 

 

 

「利之助。鍛錬も本日で終いとする。朝餉を済ませたら登って参れ」

 

 

 

利之助は大きく唾を呑み込んだ。

 

 

 

「何故、いきなり終いとなるのです?」

 

 

 

 兄の声を聴いた雫が屋敷の中から叫んだ。

 

 

 

「鍛錬にこれ以上時間は費やせぬ。世は激流となり動いておる

 

 

 

 

 

「わかりました」

 

 

 

納得できない雫にかわり利之助は静かに応え何もなかったかのように朝餉を済ませた。

 

普段言葉数の多い善次郎も静かであった。

 

善次郎は山本門下であるが利之助はまだ門下ではない。

 

門下へ入るための最終試験が始まる。

 

毎日駆け上がった養老の滝へと続く渓谷を利之助は一歩ずつ歩みを進めた。

 

瀧の轟音が響き渡る滝壺の手前に来たところ零が駆け寄ってきた。

 

 

 

「利之助様!」

 

 

 

「零様、着いてきたのか」

 

 

 

 

 

「利之助様。

 

昨夜の事、お忘れなきよう。貴方と私は歩みたいのです」

 

 

 

 

 

零は利之助の手を握り締めた。

 

利之助は雫の手を握り返し頷いた。

 

 

 

二刀を構えた山本と鍛錬を超えた命のやりとりがはじまった。

 

 

 

二刀使いの名をもって城下に戻る前の出来事である。