零 二手 養老の雫

 

 2-1 整息の崖

 

 

 

嘉永21849年、

 

 

山本と出会ってから2年余りの歳月が過ぎていた。

 

 

 

 

梅雨の季節に入った大垣。

 

 

 

昨今、近隣諸国より大垣藩は水運の城下と名高く知られているが、

 

東西決戦の関ヶ原の戦いにおいて東軍が西軍の本拠となった大垣城を

 

水攻めにすると風聞が流れたほど大垣城下は水の流れに苦悩してきた。

 

 

 

 

大垣領内を流れる大河木曽川と長良川は平穏な表情をみせるときは恵みを大垣にもたらしたが、

 

豪雨ともなれば両河が交わる揖斐川で表情を変え大垣藩の治世を乱し

 

領民の財や命を奪う暴れ龍となり氾濫を続けた。

 

 

 

 

度重なる氾濫に苦慮した宝暦年間に入り幕府への嘆願が奏し、

 

幕命により大名お手伝い普請として薩摩藩に命じられた。

 

薩摩は20万両と50名に及ぶ藩士の命を犠牲にしながら大垣の治水工事を行った。

 

 

工事の完成は明治に入ってからとなるが大垣にとって

 

薩摩の存在は決してないがしろにしてはならない恩人なのである。

 

 

 

 

揖斐川に水を注ぎこむ水源が養老山にあり山頂付近に近づくと轟音が渓谷に響き渡る。

 

 

 

轟音は流れ落ちる水の音。天下の名瀑とも謳われる養老の滝だ。

 

 

 

養老の滝の麓に山本の鍛錬場があり、

 

毎日渓谷を登り滝壺の中で鍛錬に励んだ。

 

 

 

剣術を学んだことのない利之助であっても山本は容赦がなかった。

 

 

 

剣術は大垣城下の道場で学ぶと思いながら帰郷した利之助に与えられた修練の場は山中であった。

 

山本は修練場である滝壺に到着した際に利之助に告げていた。

 

 

 

「我が流派は道場で会得できるものではない。

 

 命を削り、刃を凌ぎ合う中で会得できる。

 

 小宮山の名跡を継ぎ城下に戻り役につくことは二階堂平法を会得した時。

 

 但し、悠長な時はやらぬ。3年ですべてを会得せよ」

 

 

 

 

 

16歳の春を迎えていた利之助にとって厳しい修練が始まった。

 

 

 

 

修練が始まっての1年は利之助が剣を手にすることはなかった。

 

 

 

浦賀での出来事で利之助は生来の脚力、

 

喧嘩で培った体術は備わっていたことは山本もわかっていた。

 

 

 

利之助が剣の稽古に籠って剣を握らせてもらえぬことに不平を漏らした声を

 

聞き逃さなかった山本は自分よりも速く奔り養老の滝へたどり着ければ剣の稽古を始める。

 

と言ったことがあった。

 

 

 

険しい山道であるが既に三か月に及び登り続けた路である。

 

 

 

脚には自信があった利之助は師山本に挑んだ。

 

 

 

朝露の残る中、利之助は駆けた。

 

 

山本は想像以上に速かった。

 

 

 

険しい山地をまるで何もなき平野を駆けるかの如く駆け上っていく。

 

 

利之助も劣らぬ速さで山本の後ろから一歩の距離も引き離されることなく駆け上がっていた。

 

 

 

 

利之助の耳には滝壺に落ちる音が響き始めた。

 

 

ここからは岩場を駆け上る。

 

この岩場に勝負をかけていた全身の跳躍力で岩場を次々に飛び上る利之助。

 

 

 

山頂に駆け上がる勝負は利之助が勝った。

 

 

だが利之助は大きな勘違いをしていたのだ。

 

 

 

 

滝壺に師より速く駆け上がり「勝った」と思ったのも束の間。

 

 

利之助の心臓が悲鳴をあげ座り込んでしまった。

 

そこにゆっくりと呼吸の乱れぬ山本が現れた。

 

 

 

 

 

「見事だ。利之助。では剣を持て」

 

 

 

 

息の整わぬ利之助に一振りの真剣を投げた。

 

投げた真剣は滝壺の中で利之助の手に渡った。

 

 

 

「先生。暫し、暫し息が整うまでの時を頂戴できますか。息があがってしまった立つことも」

 

 

 

呼吸を乱し腰をあげられないまま利之助は応えた。

 

「愚か者が!」

 

 

 

山本の一括が滝壺の中で響くと同時に利之助に鞘の斬撃が振り下ろされた。

 

利之助は滝壺の中で身を翻し溺れるような形になった。

 

 

 

「卑怯!!」

 

 

 

「愚か者!まだわからぬか」

 

 

 

溺れそうにもがく利之助を鞘で山本は再び叩きつけ利之助は動くことが出来なくなった。

 

 

 

「利之助。敵だとしたらなんとする? 

 

 

己は命を失ったのだ。

 

 

 健脚であろうとも闘う余力も残らぬのでは使いようが無い。

 

 少し速い程度で自惚れるな。明朝より毎朝、駆け上がれ。

 

 剣を学ぶのはそれからだ」

 

 

 

 

利之助は卑怯と叫んだ自身の甘えを痛感した。

 

 

 

道場ではなく命を削り刃を凌ぐ修練の場。

 

 

道場であれば勝負がつけば終わりであるが戦いの中では決着がつくまで命は削られるのだと。

 

 

 

三カ月叩きこまれた、闘い方の基礎を見落としていたことを見透かされていたのだ。

 

翌日、身体中に耐えがたい痛みが奔った。

 

苦悶の表情を横目にしながら山本は冷たく言った。

 

 

 

「利之助。床に臥せるなど許さぬ。滝まで駆け上がれ」

 

 

 

利之助は歯を食いしばり立ち上がった。

 

傷から走れる姿ではない。脚を引き摺りながら滝を目指した。

 

利之助の姿を見兼ねた女子が発した。

 

 

 

「兄上!あまりに惨い仕打ち。善次郎様には斯様な苛烈な修練はされなかった

 

 

 

 

 

「黙っておれ。善次郎と利之助では身につけねばならぬことが違う」

 

 

 

「利之助様は傷だらけで動ける身体では。

 

優しき兄上が何故利之助様には厳しくあたるのです」

 

 

 

 

 

「黙れ零(しずく)!戦場で脚を止めれば死ぬ。

 

利之助は痛みで知らねば、生きる力を身につけられぬ」

 

 

 

「生きる力・・・」

 

 

 

「利之助を慕っておるのはわかる。

 

利之助は善次郎にも並ぶ腕もある。

 

だが生き延びる手段を知らぬ。

 

生き延びる手段を身につけねば如何に剣腕が強くても、生きて帰ることは出来ぬ。

 

挫けるのであれば生き延びることは到底敵わぬ。

 

利之助をあの方とは同じ目には合わせはせぬ」

 

 

 

 

 

山本は、この先、利之助と零が避けられぬ宿命と闘うことを知っているかのようであった。

 

 

 

 

修練は続き利之助は1年で呼吸を乱さずに滝壺まで駆け上がるようになった。

 

 

 

山本に云わせると脚力が鍛えられただけではなく呼吸法を会得したのだそうだ。

 

意図的に会得できるものではなく身体が無意識の中で

 

負荷から逃れるために覚える呼吸法のひとつ整息(せいそく)と云い、

 

呼吸の乱れが集中力の乱れを生むのだそうだ。

 

如何なる時も呼吸を乱さぬ鍛錬が続けられていた。

 

 

 

 

剣術に限らず武術は呼吸法が大きく影響する。

 

呼吸を整えることが相手の間合いを見切るのだ。

 

 

 

剣を持つまでに1年の時間を懸けた。

 

利之助の身体は猫のようなしなやかな筋肉に包まれていた。

 

 

 

修練が始まり1年が経ったころ再び浦賀警護の任が大垣藩に降された。

 

 

 

山本と共に大垣城下に赴き小原鉄心の命で

 

小原直臣扱いの山本門弟は浦賀警護ではなく、

 

手薄になる大垣領内の見廻りの任を言い渡された。

 

 

 

利之助には山本より赤坂宿の坂本家に戻り休養を赦された。

 

坂本の家に母を訪ね1年ぶりの再会を果たすと母より鞍沢の話があった。

 

 

 

休養から戻った利之助は暗雲の表情と共に、右手に朱色の鞘が握られていた。

 

朱色の鞘と利之助の表情を見た山本は領内見廻りに善次郎と共に利之助も同行させた。

 

見廻りが終わり再び修練場に戻った利之助に山本直々の剣術の稽古が始まった。

 

 

 

「教えてもらっていませんなどと泣き言を云う暇があるなら打ち返せ。修練で死ぬぞ」

 

 

 

 

 

滝壺で鞘を叩きつけられたとき同じく、利之助の身体は痣だらけとなり、出血も日常であった。

 

 

鍛錬は夜明けとともに始まり夕暮れまで続く。山本が去った滝壺の中に身体を委ねていた。

 

 

 

熱くなった傷に滝の水は癒しを与え、冷え切った身体に火は芯を暖め、

 

剣術の習得の中、生きる強さを利之助は身につけていった。

 

 

 

辛い鍛錬の中に最も癒されるのは優しき音色であった。

 

大垣に戻り修練場に籠る際に山本から身の回りの世話をするものとして紹介された山本の妹。

 

明るく闊達な娘であり利之助と歳は同じ。

 

 

 

名を「しずく」と名乗った。

 

善次郎は零(しずく)を紹介した席で笑いながら云った。

 

 

 

「大垣城下でしずく様よりも剣の腕の立つものが先生と俺を除いて何人おるものか。

 

利之助、変な気は起こすなよ。」

 

 

 

「善次郎様!!」

 

 

 

零が真っ赤になって怒ってみせた。

 

両頬が真っ赤に染まった表情は無邪気であり美しかった。

 

 

利之助は多くはしらないが大垣藩には初代藩主の遺訓で武術指南役が

 

複数おり剣術指南役も3名は常にいるほどであった。

 

 

 

数年前ひとりの剣術指南役が逐電しその後を小原鉄心の推挙により山本が継いだようだ。

 

 

 

城下の剣術道場同士の御膳試合で山本門弟の一人として14歳の若さで

 

他流派の免許皆伝の士分を叩き伏せたのが零であり。

 

 

 

大垣城下で零の剣腕は城下一と謳われ、18歳を迎えた今では美しさも重なり、

 

縁談の声も多くかかるようになっていたようだ。

 

 

時折善次郎が訪ねて来ては、困ったような顔で帰っていくことが多かった。

 

 

 

「零様は想い人がおるのか。

 

  よき縁談も断られてしまう。

 

  上役に如何様に御知らせするか困ったもんだ」

 

 

 

善次郎の苦笑いを横目に、利之助も零の美しさと優しさに憧れは抱いたが恋心を押し殺していた。

 

 

 

零は藩の執政小原鉄心の直臣として剣術指南役を務める師の妹であり、

 

女子ながらに流派の奥伝も用いる剣腕を持つ。

 

 

 

利之助とは身分も剣腕も不釣り合いであることを利之助は己に言い聞かせ、

 

気をかけてくれるのは兄山本の命を帯びての事と割り切ろうとしていた。

 

 

剣術の修練が始まって1年が過ぎた頃、

 

夕餉の支度を終えた零は利之助の痣だらけの背中を見つめ呟いた。

 

 

 

 

 

「兄も一切手加減で傷だらけになるまで痛めつけなくても。兄は利之助様に厳しすぎ」

 

 

 

 

 

「零様。術を身につける以前の鍛錬が足りなかった私が至らぬのです」

 

 

 

利之助は傷ではなく、朱色の鞘に納まった一振りの刀をみた。

 

3年前に浦賀警護では朱色の鞘にはなまくら刀が一振り納まっていた。

 

だが今は最期の一振りを打った鍛冶職人の魂と共に刃が納められている。

 

 

 

「覚悟の定まらぬ俺に剣術はむかないのかもしれません・・・」

 

 

 

利之助の本音であった。

 

鍛錬を重ねるたび学び得る流派の剣技は一手で相手を斬り伏せ命を奪う業であることを痛感し、

覚悟が定まらぬため一手も打ち返すことできなかった。

 

 

 

「利之助様に一振りの刀を渡された鞍沢様のお気持ちをまだ教えて頂いておりませんでした。

 

もしよろしければお話いただけますか」

 

 

 

朱色の鞘に納まった刀を利之助に手渡しながら零は利之助の隣に腰を下ろした。

 

 

 

「面白い話ともおもえませぬが」

 

 

 

「いいえ。利之助様のことは知っておきたいのです。」

 

 

 

利之助の心を真っ直ぐとした瞳が貫いた。

 

この2年に及ぶ鍛錬を見守る中零も利之助に心寄せていた。

 

零は利之助の手に鞘を握らせ声をかけた。

 

 

 

「利之助様が習得される剣術は操る腕よりも理。

 

心のありようが求められます。

 

剣腕では利之助様は、私を遥かに凌がれる腕前をお持ちです。」

 

 

 

「俺が零様を凌ぐ腕前。慰めなど・・・斯様なはずはない。」

 

 

 

「慰めなどではありません」

 

 

 

「先生に一手も撃ちこめぬ俺の腕前が零に優るというのだ

 

 

 

 

 

「利之助様は兄の剣戟を二手は捌かれています」

 

 

 

「三手目に先生の一撃を喰らって、この様だ」

 

 

 

利之助は傷を見せた。

 

 

 

「三手目。兄の三手目をわかっていながら、ご自分から撃ちこまない利之助様の心の弱さ。」

 

 

 

「撃ちこまないのではない。先生の三手目は急激に速さを増す故、避けられない

 

 

 

 

 

「利之助様、私は父から兄と共に奥伝を授けられました。

 

兄の二手を捌けた者は利之助様がはじめてにございます」

 

 

 

 

「はじめて?善次郎は?」

 

 

 

「善次郎様には奥伝の伝授はされておりません。

 

善次郎様は二手目で撃ち返そうとして敗れておりました。

 

兄から三手目を引き出すことができる利之助様は

 

兄と互角に渡り合える腕をお持ちの証」

 

 

 

 

 

「やめてくれ。先生は手加減をされている。零様、鞍沢のことお話しする。説教は終いにしてくれ」

 

 

 

利之助は零の目から見て善次郎と同格の腕をもつ剣士に成長していた。

 

 

 

 

生来の健脚は日々の渓谷の上り下りでより鍛えられ、

 

線の細い体躯は変わらぬが猫のように靭な筋肉へと変わっていた。

 

 

 

2年前の速さとは全く異なる性質の速さを身につけ兄の剣戟を捌く眼も養われている。

 

 

剣士として一流の腕前を手にしておりながら、善次郎と利之助に大きな差が生じている。

 

利之助が防戦しかしないことである。

 

 

 

攻撃に転ずる手を持ちながら常に防戦に回る。

 

 

利之助を防戦に回らせるわけを零は知りたかった。

 

 

 

朱色の鞘に籠められている想いを感じたのは利之助の涙をみてしまった。

 

 

 

心寄せた男が武士であるかないかに関わらず鍛錬程度で

 

涙を流す情けない男だったことに零は憤った。

 

 

利之助に駆け寄り殴って追い出そうとしたときに、

 

零に気付かぬまま利之助が発した言葉に零は怒りから

 

利之助の心根の優しさに触れ零は心に決めた。

 

 

 

利之助の妻になると。