一手 黒船来航

 

1-1 天保飢饉


 天保8

 

 

江戸四大飢饉のひとつ天保の大飢饉は日本全国で多数の餓死者を出した。

 

 

 

 

農村では飢饉による不作にも関わらず幕藩体制を維持するために税の取り立ては続き、

 

米問屋による買占めもあり日本国で多くの百姓一揆を巻き起こした。

 

 

 

 

百姓一揆の中には士分に有る者も加わり、米問屋の打ち壊しだけに留まらず、

 

袖の下で私腹を肥やした役人へも刃は向けられ義民として蜂起し

 

藩兵の出動となったものも日本各地で起こっていた。

 

 

 

天保の大飢饉による一揆で最も犠牲者を出し、

天保8年(1837年)義民たちの蜂起を、後の世にひとは

 

「大塩平八郎の乱」

 

と呼んだ。

 

 

 

 

幕府直轄地、天下の台所大坂で起こった大塩平八郎を筆頭に蜂起した士分、

 

町人や農民たちは幕府役人と豪商の腐敗を糺そうと火種を着けた。

 

 

 

 

訴状が死罪であることを覚悟した義士が幕府への密使として東海道を駆け抜け

 

大塩平八郎の乱は事が起こった大坂だけには留まらず遠くは

 

幕府の中枢江戸への出入りを管理する箱根の関にまで及んだ。

 

 

 

 

大飢饉の対策だけでも各藩の執政の肩には重責が圧し掛かっていたが、

 

天保元年あたりには日本の近海には度々異国船が現れ港へ強行して接岸することも増した。

 

 

 

幕府は諸藩へ海岸線の警備と難破し漂着した異人の人命救助を命じた。

 

警備や救助に掛る費用は各藩の台所をより逼迫させ、

 

公然と幕府非難の姿勢へ転じる者も現れ、幕府は威信失墜を回避するために厳しくこれを取締った。

 

 

 

 

時代は大きくかわりはじめるなか、本州の中央にちかくにある大垣藩は西美濃の深い谷や山に囲まれ、

 

平野部は豪雨により稲は荒らされていた。

 

 

石高10万石を誇る藩であった大垣藩だが、

 

実質の石高は雨や不作の影響もあり小藩と変わらず米不足は切迫した。

 

 

 

大飢饉により大垣藩の米不足も深刻であったが藩領を流れる川の流れが領民を飢餓から救った。

 

両川は暴れれば領民の命、財、田畑を荒らし奪い去る暴れ龍であったが、

 

川からあがる漁は命を繋ぐ糧になった。

 

 

 

また、藩財政は藩領を通る江戸と大坂を繋ぐ大動脈中山道赤坂宿を抑える要地が

 

人とモノの流れによる恩恵を受けたが、恩恵は領民にわけられることなく一部の者たちが

 

独占し僅かな役人と商人は大坂の蔵屋敷をも仕切るようになっていたのだ。

 

 

 

 

関ケ原の戦いの武功を挙げた初代藩主戸田氏鉄より

 

徳川幕府親藩として武門を尊ぶ大垣藩の治世は、

 

 

異国船、飢饉、強欲に溺れた者によって乱れ始めていた。

 

 

 

 

打開のため第9代大垣藩主戸田氏正は家老から小原鉄心を

 

藩政改革の中心と起用し藩政をまさ糺そうとした。

 

 

 

小原鉄心は藩財政の立て直しと共に士分を鍛えなおすため

 

軍制改革にも着手し浪人を直臣として召し抱えるなど時代の流れに追いつくため働いた。

 

 

 

 

国の乱れは暴れ龍となった大垣の両河の如くひとつの時代を

 

呑み込む濁流となり急激に流れだしていた。