抜刀 士農工商


慶応三年九月三日(1867 年 9  3 日)

 

 



京で 1 人の武士が白昼堂々殺害された。

 




 日本の国で武士または侍と呼ばれた人々。

 

 

古来から時に英雄と謳われ、

 

時に悪漢として恐れられ、忠義、正義、覚悟、理、信念、志、

 

様々な言葉 にて、その存在の意義は現代に語られてきた。

 

 

 

長い戦国時代の終焉の後、

 

訪れた太平の江戸時代において武士のみが持つことを許された刀。

 

 

 

刀は生まれたときから人の命を奪うために

 

研ぎ澄まされ続けた道具であり、

 

刀を用いる剣術は人の命を 奪うために

 

磨かれ続けた技術であることに人々は眼を背けてきた。

 

 

 

 

戦国期の終焉とされる大阪の陣と呼ばれた戦において

 

幕府の下統制された忠義の士として描かれた武 士であっても、

 

敵方の将兵のみならず、

 

大阪の役に巻き込まれた民百姓から乱捕りを行った。

 

 

 

 

凄惨たる光景を目の当たりにした徳川幕府幕臣は、

 

武士を秩序ある統制下に置き国の騒乱を防ぐ手立て を講じなければならなかった。

 

 

 

士農工商の身分制度の誕生である。

 

 

 

士農工商において幕府は武士の存在意義を高めた。

 

それは武士に階級の特権を与えることが真の目的で はなく、

 

ひとの本性である暴性を収めるため、

 

武家諸法度の法制度のなか理性ある「武士たる者」の姿 を示し

 

統制させていく狙いがあった。

 

 

 

江戸時代、武士と呼ばれた者たちは、

 

武士のたしなみとして帯刀し剣術を高めることを求められながら、

 

人の道の道理を説く剣術を学び、理性の鞘に刀を納めるようになっていた。

 

 

 

武士という誇りを得るために、刀を帯びたが、

 

幕府の狙い通り誇りと名に拘り刀と剣術の本質は鞘の中に納められ、

 

日々繰り返された刃のぶつかり合いは暗闇の中に沈んでいった。

 


太平の世で人の道の道理を説いた剣術は、

 

天保年間に相次ぐ異国船の出現から 1846 年弘化年間の黒船来航の汽笛に

 

人々は怯え、恐怖から逃れるための手段として、

 

闇に潜んでいた殺人術へと急激に立ち戻 っていった。

 

 

 

幕末と呼ばれ揺れ動いた大乱の流れの中、

 

闘いつづけた名も残らぬ武士が未来のために貫き通した剣の理「鞘」と、

 

日本国の行く末を駆け人の道と刃に迷い続けた武士たちの生き様を語った、

 

一人の元薩摩 藩士の追憶を綴った物語である。